1.天満橋の八軒屋
9:41ここからがスタートです。平安時代の頃は、京都の上皇が淀川を川で下り、この八軒屋で降りて歩き出したとのことです。
2.窪津王子(くぼつおうじ)
3.坂口王子(さかぐちおうじ)
10:21 私が熊野古道の王子を踏破しようと思ったきっかけとなった所に再び来ました。南大江公園の一角にあります。大阪の町中の公園に王子。私にとって不思議な存在。果たしてその謎が解明できるのでしょうか。案内板をみると、
朝日神明社跡(坂口王子伝承地)とあります。王子は、神社なのか?どんどん謎か深まります。
4.郡戸王子(こうとおうじ)
11:04 熊野古道から少し離れた高津宮神社の中に、推定値の石碑があります。高津(こうづ)宮神社は立派な神社です。読みも近いことですし、王子は、やはり神社かと思いつつ、次へ行きます。
5.上野王子(うえのおうじ)
11:29 この王子も熊野古道から少し離
れています。行ってみてびっくり。何と上宮ハイツという集合住宅の入り口の軒下に石碑がありました。
それにしてもここは案内板もなく、ちょっとした宝探しのような旅になってきました。
6.阿倍王子(あべおうじ)
12:31 阿倍王子神社に到着。阿部野橋駅はよく通りかかるのですが、その地名の由来は、どうやらここな
のでしょう。はじめて知りました。
案内板をみると、この神社が仁徳天皇もしくは阿部氏の創建で、その後、熊野詣でが盛んになった平安時代の頃から王子と称せられるようになったとあります。
この看板をみて、私は考えました。どうやら、王子は太古の昔からあったものではなく、熊野詣でが盛んになった時に付近に神社があれば、新たに指定されたものである。ただ、大阪市内は古い街で昔から神社はあるだろうが、だんだんと山の中も入るだろう。その場合はどうなるのか?また、上野王子の場合、神社が昔あり、今現在移転したのかもしれないけれども、神社はそもそも移転
することがあるのか?上野王子は一等地だから特別なのか?まだまだ謎が深まります。
この神社の近くに安倍晴明神社もあったので、少しのぞいて行きました。
7.津守王子(つもりおうじ)・・・大阪市から堺市へ
それから、大阪の下町を歩きます。チンチン電車の線路の横も通りながら。次の津守王子(つもりおうじ)は碑がないということで通過。
やっと大阪市が終わります。大阪市がこんなに広いとは思いませんでした。
大和川に架かった橋を渡って堺市へ。
堺市へ渡ったのに、大阪と同じ「遠里小野(おりおの)」という地名に気づく。
そういえば、大和川は江戸時代に大工事の末付け替えられ、大阪と堺の間を通ることとなったと聞いたことがあります。遠里小野という地域は、たぶんそのときに分断されてしまったのでしょう。
8.境王子(さかいおうじ)
14:07 今は「堺」ですが、昔は境だったのでしょう。
写真だけ撮ってしばらく歩き、方違神社の前を通ります。
方違神社の案内板をみると、ここは摂津、和泉、河内の3国の境で、いずれの地にも属さず、方位のない地とのこと。おもしろいです。ということは、境(堺)の名前の由来は、3国の境目であるということになるのでしょう。堺には三国という地名もありますし。
歩いていると、普段気づかないことが発見できます。
方違神社の近くのそば屋さんで遅い昼食を取り、再び歩き始めます。
少し道に迷った後、仁徳天皇陵の前を通り、直角に曲がります。直角に曲がる理由はよくわかりませんが、地図ではそうなっているので仕方ありません。恐らく、このあたりは熊野街道の位置が今ではよくわからないところなのでしょう。堺は、戦国時代、自治国家であったといいますし、その頃に道が随分変わってしまったのかもしれません。
再び直角に曲がり、しばらく歩くと「小栗街道」の看板が出てきました。熊野街道、紀州街道ならわかるのですが、小栗街道とは?地元の有名な人の名前なのでしょうか?(小栗の意味、これは後にわかったので説明します。)
病院で車のたくさん通る通りから少し曲がり、しばらくすると線香工場を発見。堺はやはり歴史の深い街と実感します。9.大鳥居前王子(おおとりいまえおうじ)
夕方に大鳥神社に着きました。ここに大鳥居前王子(おおとりいまえおうじ)があったようですが、碑はないようです。神社に着いたので、休憩がてら、ガラパゴス携帯の通信モードで宿を探します。しかし鳳付近ではなかなか見つけられず、そのうち神職さんにそろそろ門を閉めますよといわれ、神社を後にします。鳳駅17:00で本日は終了し、宿は堺東駅の近くに取りました。自分の予想では1日で和泉市くらいはいけると思っていたのに、王子が街道から離れているところがあったのと、少し道に迷ってしまい、残念。明日は早起きしてできるだけ歩くことにします。
本日の地図上の歩行距離24.0km